三河別院のあゆみ
三河別院は、真宗大谷派(東本願寺)の三河地域の別院です。
三河地域は宗祖親鸞聖人とのゆかり深く、蓮如上人の熱心な説法により早くから大きな真宗門徒の勢力を築いた地です。
三河別院は長い歳月の中を門徒とともに生き、その役割と使命を果たしてきました。
「御坊」から「別院」へ
江戸時代、地方の門徒のお世話をする真宗大谷派の拠点として、「御坊(ごぼう)」がありました。御坊とは、17世紀以後、本山に準ずる格式として設けられた寺院で、明治時代になると、「御坊」の名称は「別院」と改められ、それが今日に至っています。
やがて18世紀の後半、海上交通の要路でもあった西三河南端、赤羽に赤羽御坊が建立されます。しかし、天明8年(1788)に本山が焼失したため、その支援をおこなう三河の拠点として東海道沿いの暮戸に会所が設置されました。以後、この暮戸が西三河の中心的な拠点となっていきます。
明治になり、本山両堂再建のために赤羽別院と暮戸説教場(会所改め)を岡崎に移し、三河別院とするという通達が、厳如上人御譲職前日の明治22年(1889)10月6日に出されます。しかし、地元門徒が存続を願い出たため、赤羽と暮戸からの移転は取り止めとなります。その代わりに、丹後峯山別院の本尊を移して三河別院となし、明治23年(1890)4月8日、御入仏法要が厳修されました。
その後、数々の変遷を経ながらも、三河別院は当地随一の念仏道場として、僧侶門徒の育成や教学振興、幼児教育、布教伝道活動などに大きな役割を果たしてきました。
ひらかれた別院として、
地域とともに、門徒とともに
第二次世界大戦中、本堂が焼失。再建と境内地の整備が完了したのは、昭和63年(1988)のことです。その感謝法要の厳修を機に、とくに、①別院の年中行事の手引きをつくり、法要儀式、荘厳などが寺院の法要儀式荘厳教化の参考になることを期すこと(儀式執行の面)②寺族子弟の声明および諸作法習得の場として研修制度を設けるとともに、門徒の方々への声明指導並びに寺院の法要儀式の助勢を行うこと。(僧侶および門徒の教化育成の面)、の2点に力を注いできました。また「ひらかれた別院」を願い、夏の盆踊り大会や講演会、各種展覧会等を定期的にひらき、地域社会に密着した交流活動を図りながら、次代に求められる別院像を模索してきました。
今後は、2007年4月に行われた「蓮如上人五百回御遠忌法要」を縁として、三河地域の寺院門徒の教化の中心地となる別院をめざし歩みを進めてまいります。
略年表
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1235年
嘉禎3年
親鸞聖人、関東より帰洛の途中、三河・矢作柳堂で教化
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1468年
応仁2年
蓮如上人、三河巡化
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1788年
天明8年
本山(東本願寺)焼失
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1890年
明治23年
厳如上人の通達により丹後峯山別院を三河岡崎に移し、三河別院と改称、入仏法要
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1909年
明治42年
本山旧太師堂の下附を受け、本堂入仏法要
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1925年
大正14年
燕岡幼稚園(現燕ヶ丘保育園)を創設
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1945年
昭和20年
太平洋戦争においての空襲により伽藍の大半を焼失
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1965年
昭和43年
本堂上棟式、復興永代経
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1970年
昭和45年
本堂入仏法要(現在の本堂)
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1988年
昭和63年
三河別院開創100年、親鸞聖人700回御遠忌法要、庫裡・書院・土塀等新築
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1995年
平成7年
蓮如上人500回忌お待ち受け法要、立教開宗750年慶讃法要、宗祖厨子修復、東別院会館新築
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2007年
平成19年
三河別院蓮如上人500回御遠忌法要厳修